白馬江(ペンマガン)の南にある低い山が、百済最後の都・泗沘(サビ)の最期を見届けた城です。扶余 扶蘇山城は、平時は王室の庭園のように、戦時には都城の最後の防衛線として使われたとみられる山城で、森の道に沿って軍倉跡、楼閣、落花岩、皐蘭寺までひと続きにつながっています。2015年には、官北里遺跡とともに、ユネスコ世界遺産「百済歴史遺跡地区」に登録されました。
百済は538年(聖王16年)に熊津(公州)から泗沘(扶余)へ都を移した際、王宮を守るためにこの城を築いたとみられます。山頂を囲むテメ式の城がそれ以前からあり、7世紀初めに現在の姿に広げられたという解釈もあります。山頂部を巡るテメ式と、その外側の谷まで包み込む包谷式を併用した複合式山城で、周囲は約2.2kmです。記録には泗沘城、所夫里城として出てきて、現在の名前は山の名前に由来します。百済滅亡後も、統一新羅が城壁を直しながら使い続け、発掘では847年を意味する文字が刻まれた瓦が出土し、補修の時期を教えてくれました。1963年に史跡に指定されました。
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