扶余市街の北、扶蘇山(プソサン)が尽きる平地に、広い芝生が広がっています。一見すると公園のようですが、ここは538年から660年まで、百済最後の都・泗沘(サビ)の王宮跡と考えられている場所です。2015年に扶蘇山城とともにユネスコ世界遺産「百済歴史遺跡地区」に登録され、今も発掘が続いて新しい発見が出ています。
三国時代の宮殿で、位置がはっきり分かっているのは、高句麗の安鶴宮(アナックン)くらいでした。1982年から忠南大学校博物館がこの一帯を発掘して、状況が変わりました。1983年に石を積んだ四角い池が現れ、1988年には「北舎」の文字が刻まれた土器が、1992年には百済時代の道路と排水施設が見つかりました。その後、国立扶余文化遺産研究所が発掘を続けるなかで、大型の殿閣の建物跡、水路、敷地造成の痕跡、工房や井戸が確認されました。
2001年に国の史跡に指定され、2011年に今の名称「扶余 官北里遺跡」になりました。
2024〜2025年の第16次発掘調査で、木簡329点と竹でつくった横笛1点が出土し、国家遺産庁が2026年2月に結果を発表しました。木簡の数は単一の遺跡としては国内最大で、540年と543年を示す干支が書かれており、泗沘遷都の直後の記録とされています。人事記録、穀物の帳簿、官職の記録が書かれていました。残りの長さが22.4cmの横笛は、朝堂(チョダン)と推定される建物の横の穴から出土しましたが、土のなかから寄生虫の卵が確認されたため、この穴はトイレだった可能性が高いといいます。それ以前の2024年には、王宮の施設とみられる大型の建物跡の周辺の穴から、漆を塗った革製の鎧の破片が出て、660年に百済が滅びたときの最後の戦いの痕跡ではないかという解釈も出ました。今の芝生の下には、こうした物語がまだたくさん眠っているわけです。