仁川チャイナタウンは、1883年の仁川港の開港後、翌年に清国の租界ができたことで形成された、韓国でもっとも古い華僑の町です。韓国式中華料理の象徴であるジャージャー麺(チャジャンミョン)が初めて売られた場所とされ、路地を歩きながら、近代の開港場の歴史と食の物語にいっしょに出会えます。首都圏電鉄1号線の仁川駅のすぐ目の前なので、ソウルから日帰りでも行きやすいです。
1884年に仁川華商租界章程が結ばれ、今のチャイナタウンの場所に清国の租界が定められました。最初は広東や香港出身の商人が多かったものの、次第に山東出身者が中心になり、港の建築ブームに乗って、労働者や料理人、野菜をつくる農民までもが海を渡ってきました。1905年ごろ、山東の家庭料理をもとにしたジャージャー麺がこの町で売り出されたといわれています。1970年代には、外国人の土地所有を制限する規制などで多くの華僑が韓国を離れ、港の機能が移っていくにつれて、町もしばらく衰えました。1990年代後半に韓中交流が増えると、再び観光地としてよみがえりました。
チャイナタウンに住む華僑の多くは、開港期の移住者の2〜3世です。そのため、ここの中華料理は、本土の料理とも、ほかの国のチャイナタウンとも少しずつ違います。ジャージャー麺や酢豚(タンスユク)のように韓国に根づいたメニューを、それが生まれた町で味わうのが、ここをいちばん手軽に楽しむ方法です。
租界ができる前の1883年、ここに住んでいた中国人は63人にすぎませんでしたが、翌年には235人、1892年には637人に増え、1900年代初めには約1,000人にのぼりました。1883年から上海と仁川を結ぶ定期船が就航し、貿易も活発になりました。1910年の韓国全体の華僑約11,800人のうち、2,800人あまりがこの租界の中に住んでいたといいます。華僑学校は、一時は生徒が1,500人に達するほど大きく、1992年の韓中国交樹立後も、台湾(中華民国)の支援を受けて運営されています。
1973年、政府は小麦粉食を奨励するという理由で、中華料理店に白米を売ることを禁じました。店は小麦粉をご飯粒のように加工して炒飯を出さなければならず、華僑団体の陳情の末、3か月で白米の販売が再び認められました。同じころ、外国人の土地・建物の所有を制限する法律により、大きな中華料理店が次々に店を閉め、共和春も結局1983年に営業を終えました。いまのチャイナタウンには、2004年に「共和春」という名前で開業した店もありますが、本来の共和春の一族は、この店との関係を認めていません。
チャイナタウンの入口には、高さ11mの中国式の牌楼(門)が立っていて、写真を撮る人が大勢います。2005年には韓中文化館がオープンし、両国の交流を紹介しています。
中国の人々が朝鮮に長く滞在するようになったのは、1882年の壬午軍乱のときでした。清国は、山東にいた呉長慶(ごちょうけい)の軍隊4,500人あまりを派遣しましたが、このとき商人40人あまりが一緒に入ってきて、清軍が駐屯していた龍山の近くで商売を始めました。彼らが開港した済物浦(チェムルポ)へ移ってきたことで、チャイナタウンの歴史が始まりました。義善堂は、いま仁川華僑協会が指定した文化遺産第1号です。