仁川市彌鄒忽(ミチュホル)区文鶴洞(ムナクトン)、昇鶴山(スンハクサン)のふもとに、朝鮮時代の仁川の町の公立学校だった仁川郷校があります。すぐ隣には仁川都護府の官衙の建物が再現されており、朝鮮時代の一つの町の「学校」と「役所」を一か所で見られる場所です。今も春と秋に孔子と聖賢に祭祀をささげ、伝統礼節の教育を続けています。
郷校は、朝鮮時代に国が町ごとに建てた教育機関です。孔子や聖賢の位牌を祀って祭祀を行うことと、地方の学生を教えることの、二つの役割を担っていました。国から土地や奴婢、書物を与えられて運営され、仁川郷校では、教官一人が学生30人を教えるよう定員が決められていました。朝鮮後期になるにつれ教育機能は弱まり、祭祀が中心になりました。
創建された年ははっきりしません。15世紀半ばに改築したという記録があるため、それ以前からあったとみられ、1398年に今の文鶴洞に建てたという資料もあります。現在残る主要な建物は朝鮮後期に建てられたとみられ、1976年に大成殿と明倫堂、三門が改修されました。1990年11月9日に仁川広域市有形文化遺産に指定されました。
朝鮮時代の京畿道には、牧が3か所、都護府が8か所、郡が10か所、県が12か所あり、仁川と富平がどちらも都護府でした。仁川は1459年(世祖5年)、世祖の王妃・貞熹王后(自聖王后)尹氏の母方の実家がある町だとして、都護府に昇格しました。郷校の隣の仁川都護府の官衙は、そのときから続く町の役所で、客舎の瓦から「康熙16年」の文字が見つかり、1677年に建て直されたことが確認されています。本物の官衙の建物は近くの文鶴小学校の中にあって自由には入れませんが、郷校の隣に再現された官衙を見学できます。
手前に学びの空間、奥に祭祀の空間を置く「前学後廟」の配置がよくわかります。郷校の敷地は約2万1千㎡とかなり広く、建物の間の庭や石垣の道をゆっくり歩くのに向いています。