萬壽山(マンスサン)のふもとの無量寺は、外から見ると2階建てなのに内部は一つに吹き抜けている極楽殿、そしてその前に一列に並ぶ高麗の石塔と石灯籠で記憶されるお寺です。朝鮮前期の文人**梅月堂・金時習(キム・シスプ)**が生涯を終えた場所で、お寺の下の森には彼の浮屠(ブド、僧の墓塔)が残っています。行政区域は扶余(プヨ)郡ですが、保寧(ポリョン)市街のほうが近く、西海岸の旅とまとめやすいです。
無量寺がいつ建てられたのかは、正確には伝わっていません。新羅末に梵日(ポミル)国師が建てたという話が最も広く知られていて、資料によってその時期を文聖王の時代または憲康王の時代とします。新羅末の高僧・無染(ムヨム)大師がしばらく滞在し、高麗時代に大きく再建したといわれます。一時は鴻山県(ホンサンヒョン)に属していたため、「鴻山 無量寺」とも呼ばれました。
このお寺の物語に欠かせない人物が**金時習(1435〜1493)**です。生六臣(センニュクシン)の一人で、首陽大君(スヤンデグン)が王位を奪ったという知らせを聞いて仏門に入り、全国をさすらったのち、晩年を無量寺で過ごして亡くなりました。韓国初の漢文小説とされる『金鰲新話』を書いた人でもあります。
四天王門の内側に立つと、石灯籠、五層石塔、極楽殿が一列に重なって見えます。無量寺の写真の大半は、まさにこの場所で撮られています。
お寺の入口側の森の道には、金時習浮屠(忠清南道有形文化遺産)があります。基壇の中央には、雲の中で2匹の龍が如意珠を争う姿が刻まれており、日本統治期に暴風雨で木とともに倒れたとき、その下から舎利1点が出てきたといいます。金時習の肖像(宝物)は、生前の姿を描いたと考えられる貴重な絵で、原本はソウルの仏教中央博物館に保管されています。
無量寺には、高さ約14mにもなる**弥勒仏掛仏図(カルブルド)**も伝わっています。1627年に描かれた絵で、これまでに国宝に指定された掛仏のなかで最も早い時期の作品であることから、2025年に国宝となりました。大きな野外の法会のときだけ掲げる絵のため、普段は見られません。
「無量」とは、測り知れないという意味で、尽きることのない寿命と光をもつ阿弥陀仏を指す言葉とつながっています。無量寺が自らを阿弥陀の祈りの道場として紹介し、中心の法堂の名前が阿弥陀仏の世界を意味する極楽殿であるのも、そのためです。極楽殿の中の三尊仏も、阿弥陀仏を中央に置き、観音菩薩と大勢至菩薩が両脇を守る構成ですが、17世紀前半にこのような阿弥陀三尊の図像で造られた大型の仏像は珍しく、価値がいっそう高いと評価されています。
1971年に五層石塔を解体修理したとき、層ごとに異なる遺物が出てきました。1層の塔身からは、阿弥陀仏を中央に、観音菩薩と地蔵菩薩が脇侍についた金銅三尊像が、3層からは高麗前期の金銅菩薩坐像が、5層からは舎利荘厳具が発見されました。3層の菩薩像は、高麗前期の作品で発見場所がはっきりしている珍しい例で、1層の三尊像は朝鮮初期の様式をよく示しており、塔を最初に建てた時期と築き直した時期を推測する根拠になりました。
極楽殿のほかに、冥府殿や霊山殿などの殿閣が境内にあり、三殿牌や銅鐘などの遺物も伝わっています。金時習は21歳で出家し、儒学と仏教を行き来する文章と、15巻を超える分量の漢詩を残しましたが、無量寺を歩いていると、彼がなぜこの深い谷を最後の住まいに選んだのか、察しがつきます。
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