保寧(ボリョン)市街から東へ、聖住山(ソンジュサン)の谷あいに入ると、山に囲まれた広い芝生の上に、石塔が四基並んで立っています。かつて新羅の禅宗をリードした大寺院、聖住寺の跡です。建物はすべて消えましたが、新羅随一の文章家崔致遠(チェ・チウォン)が碑文を作った国宝の塔碑が残っていて、歴史が好きな人なら、わざわざ訪れる価値があります。
聖住寺の始まりは、百済の時代に建てられた悟合寺(オハプサ)です。戦争で亡くなった人々の魂を慰める国の寺院だったといわれ、百済が滅びたあと、しばらく廃墟になりました。
寺を再び興したのは、武烈王の8代の子孫である朗慧和尚無染(ムヨム)です。821年に王子の金昕(キム・フン)とともに唐へ渡って禅を学び、845年に帰国してこの寺に住み、文聖王が「聖住寺」という名を与えました。聖住寺は、新羅末の禅宗の九つの山門である九山禅門のひとつ、聖住山門の中心となり、なかでも最も多くの僧侶を育てた大きな山門だったといいます。朗慧和尚は、888年に89歳でこの寺で入寂しました。
寺は壬辰倭乱を経て衰退し、17世紀末に閉じました。1991年から1996年まで6回にわたる発掘で、中門、石塔、金堂、講堂が南北に並ぶ伽藍配置や、三千仏殿の跡などが確認されました。1984年に国の史跡に指定されました。