粛靖門(スクチョンムン)は、朝鮮の都・漢陽(ハニャン)を囲む漢陽都城の北の大門です。東大門、西大門、南大門とともに四大門をなしますが、北岳山(プガクサン)の東の稜線の深い山中にあるため、今も城郭道を歩かなければたどり着けません。1968年から一般の立ち入りが禁じられ、2006年にふたたび開かれた門なので、ソウルのど真ん中で長く閉ざされていた道を歩くような気分を味わえます。
粛靖門は、1396年9月に都城のほかの城門とともに建てられました。最初の名前は「粛清門」で、1523年の記録に初めて「粛靖門」という名前が登場します。建ててから17年後の1413年、景福宮の地脈を守らなければならないという風水家の上疏により、彰義門(チャンウィムン)とともに門を閉ざし、道に松を植えて通行を止めました。その後、朝鮮が終わるまで、普段はほとんど使われませんでした。代わりに少し北西に弘智門(ホンジムン)を設けて、そちらを通るようにしたため、位置のうえでは北の大門は粛靖門ですが、実際の北の出入口の役目は弘智門が果たしていたとみる見方もあります。「粛靖」とは「厳粛に治める」という意味です。
その代わり、特別な儀礼にはこの門が使われました。北は水と陰の気を象徴すると考えられていたため、干ばつで雨乞いをするときは、南の崇礼門(スンニェムン)を閉めて北の粛靖門を開けました。旧暦1月15日の満月(正月大満月)の前にこの門を3回訪れると厄がなくなるという俗説があり、女性たちがよく訪れたという話も伝わっています。
山中にあったおかげで、日本の植民地時代に道路や電車の工事で城壁が取り壊されたときも、被害を受けませんでした。そのため、門の両側の城壁が完全につながって残る唯一の大門となっています。門の上の楼閣は1976年に新しく建てられたものです。1968年の1・21事態(北朝鮮の武装ゲリラが青瓦台近くまで侵入した事件)のあと、青瓦台の警備を理由に立ち入りが禁止されましたが、2006年4月1日に周辺の城郭の探訪路とともに、ふたたび開放されました。
漢陽都城は1395年に築城工事が始まり、土と石で築かれ、1422年、世宗の時代に土で築いた区間がすべて石で築き直されました。1704年、粛宗の時代には、四角く整えた石で城壁をほぼ垂直に積み上げました。粛靖門の周りの城郭を歩きながら、石の形や積み方を見比べると、どの時代に築かれた区間なのかが推測できます。