安城(アンソン)・陽城面(ヤンソンミョン)の徳峰里(トクポンニ)、村の入口の丘にある徳峰書院は、朝鮮の粛宗の時代に直言をして命を落とした文臣呉斗寅(オ・ドゥイン、1624〜1689)を祀る書院です。規模は小さいですが、1871年に興宣大院君(フンソンデウォングン)が出した書院撤廃令でも取り壊されず、生き残った全国47の書院のひとつであるという点が特別です。傾斜地に講堂と祠堂を順番に配置した、端正な構えを見に行くのにぴったりです。
呉斗寅は、1648年に進士試で首席合格し、翌年の別試文科で壮元(首席)及第して、さまざまな官職を歴任しました。1689年(粛宗15年)に粛宗が仁顕王后を廃位すると、李世華(イ・セファ)、朴泰輔(パク・テボ)とともにこれに反対して、平安道の義州(ウィジュ)へ流刑になり、その道中の坡州(パジュ)で亡くなりました。この事件に続いた政治的粛清を、己巳士禍(キササファ)と呼びます。ともに上疏を出した朴泰輔も、ひどい拷問の末に亡くなり、粛宗時代の政治史の悲劇として記憶されています。1694年に領議政を追贈され、「忠貞(チュンジョン)」という諡(おくりな)を受けました。
書院は1695年(粛宗21年)、彼の忠節と徳行を称えて、地域の儒生を教えるために建てられました。1697年には、王が「徳峰」の扁額を下賜し、国から公認と支援を受ける賜額書院となりました。今は教育の機能はなくなり、祭祀を行う場所として残っていて、1972年に京畿道有形文化遺産に指定されました。
書院は、学問を修め、先賢の祭祀を行う私立の教育機関でしたが、朝鮮後期には数が大きく増え、弊害も生じました。そこで興宣大院君がその大部分を廃止したのですが、徳峰書院のようにこのとき生き残ったのは、おおむね国が特に高く称えた人物を祀った書院でした。小さな田舎の書院がもつ重みを、この一節から感じられます。