京畿道(キョンギド)烏山(オサン)市・芝串洞(チゴクトン)、野原の真ん中にそびえる禿山の頂上を、城壁がぐるりと囲んでいます。壬辰倭乱(イムジンウェラン、文禄・慶長の役)のとき、権慄(クォン・ユル)将軍が2万の軍勢で守り抜いた禿山城(トクサンソン)です。山城の最大の弱点は水が足りないことでしたが、権慄が倭軍の目の前で白米を馬にかけ、水で洗っているふりをして敵をだましたという洗馬台(セマデ)の伝説は、今もこの山の名のように語り継がれています。
禿山城がいつ最初に築かれたかははっきりしませんが、百済が築いた城とみられています。統一新羅や高麗の時代にも軍事の要衝であり、昔の名前は石台山(ソクテサン)、香炉峰(ヒャンノボン)で、朝鮮時代に禿山城と呼ばれるようになりました。
もっともドラマチックな瞬間は、壬辰倭乱のときでした。権慄将軍は全羅道から約2万の軍勢を率いて北上し、ここに陣を敷いて、宇喜多秀家(うきた ひでいえ)が率いる倭軍の進路を阻みました。陣を敷いた時期は、資料によって1592年12月または1593年と書かれています。戦争中の1594年に民衆が城を築き直し、1602年には京畿防御使の卞応星(ピョン・ウンソン)が石で改築し、正祖(チョンジョ)の時代の1792年と1796年にも工事が行われました。水原華城(スウォンファソン)を築いていた頃に、この城もあわせて手直しされたわけです。
城の中の水が足りないことに気づいた倭軍は、城を取り囲んで水が尽きるのを待っていました。すると権慄は、山の上の見えやすい場所に白い馬を引き出し、白米をかけて馬を洗うふりをしました。遠くから見ると米が水のように見え、倭軍は、山の頂上で馬を洗えるほど水が豊富にあるのだと見誤って退いたといいます。そのため、この高い台を「馬を洗った場所」、洗馬台と呼びます。近くの1号線の洗馬駅(セマヨク)の名前も、ここから来ています。