仁川(インチョン)の桂陽山(ケヤンサン)の麓にある富平郷校は、ルーツをたどると高麗の1127年にまでさかのぼります。この年、高麗の仁宗の命によりこの地域に学校が設けられ、郡の名前が変わるたびに、学校の名前や場所も一緒に移ってきました。現在の建物は丙子胡乱の後に建て直されたもので、京仁教育大学校のすぐ北の住宅街に静かに残っています。
1127年(仁宗5年)、王命によって桂陽山の麓、現在の桂陽区・梧柳洞(オリュドン)に樹州(スジュ)郷校が建てられました。当時、全国56の州すべてにこのような学校が建てられたとみられています。1165年に郡の役所である安南都護府が桂山洞(温水谷)に移ると、郷校も安南山の南、今の桂山2洞のあたりに移ったと推定されています。1310年(忠宣王2年)に郡が富平府になるのに伴い、名前も富平郷校に変わりました。
1636年の丙子胡乱で祭祀用の建物がすべて焼け、1688年(粛宗14年)に現在の場所に建て直されました。今残る建物は18世紀以降に建てられたもので、何度も修理を重ねてきました。1990年11月9日に仁川広域市の有形文化遺産に指定されました。
教育の空間を前に、祭祀の空間を後ろに置く「前堂後廟」の配置です。古い記録には、祭祀の供物を準備する典祀庁のような建物もあったとありますが、今は残っていません。
朝鮮時代には国から土地や奴婢、書物を受けて学生を教えていましたが、今では教育の機能がなくなり、祭祀の機能だけが残っています。春と秋に聖賢に捧げる釈奠大祭は、今も続けられています。