仁川(インチョン)桂陽区(ケヤング)の桂陽山(394m)の東の尾根を登ると、峰をヘアバンドのように囲む石の城壁が、復元工事を経て再び姿を現しつつあります。仁川 桂陽山城は、三国時代に最初に築かれ、高麗時代まで使われた山城で、城内の集水井(しゅうすいせい)から『論語』の一節が書かれた木簡が出土して大きな注目を集めました。城の下には、山城をテーマにした桂陽山城博物館があり、遺物と城跡を一度に見られます。
桂陽山は、金浦(キンポ)平野と漢江下流、仁川の沖合が一望できる位置にあり、昔から軍事の要衝でした。城が最初に築かれた時期は正確には分かりませんが、発掘では、百済時代によく使われた丸底の壺と、高句麗のものと見られる土器片が出土し、土器や瓦の大部分は、新羅から統一新羅を経て、高麗時代のものでした。そのため、三国時代に築かれたあと、区間ごとに手を加えながら、高麗時代の10世紀ごろまで主に使われた城と見られています。
1530年に編纂された『新増東国輿地勝覧』にはすでに、「石で築かれ、周囲は1,937尺だが、今は崩れている」と記されています。長いあいだ崩れたまま残っていた城は、1992年に仁川市の記念物になり、2003年から続く発掘の成果をもとに、2020年に国の史跡へ格上げされました。
朝鮮時代の記録にはすでに崩れていたと出てくる城ですが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のとき、ここで明の軍と小西行長の日本軍が衝突したという話が地域に伝わっています。記録で確認された事実というより、口伝えの話として知っておくといいでしょう。高麗の文人李奎報(イ・ギュボ)は、桂陽山の万日寺(マニルサ)で詩を残し、この山から仁川と通津(トンジン、現在の金浦)がどちらも見渡せると書きました。
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