浮石寺(プソクサ)は、新羅の高僧義湘(ウィサン)が676年に鳳凰山(ポンファンサン)の中腹に建てたお寺で、高麗時代の木造建築の代表作である無量寿殿があります。山の斜面を削らずに石で築いた石垣の上に建物を段々に配置しているため、一柱門から無量寿殿まで上る道そのものが、ひとつの建築体験になります。2018年には「山寺、韓国の山地僧院」のひとつとして、ユネスコ世界遺産に登録されました。
『三国史記』は、義湘が王の意を受けて浮石寺を建てたと伝えています。義湘は唐で華厳学を学んで帰国すると、ここを中心に華厳宗を広め、そのため彼を「浮石尊者」、華厳宗を「浮石宗」とも呼びました。新羅末には、華厳宗を代表する大寺院に成長しました。高麗の恭愍王の時代の1372年に円応国師が住職になると、境内の建物の大部分を建て直し、無量寿殿は1376年、祖師堂は1377年に建てられたことが知られています。
寺名の「浮石」は、「浮いている石」という意味です。『三国遺事』によると、唐の女性善妙(ソンミョ)は、留学中の義湘を慕い、彼が新羅へ帰るときには竜に姿を変えて航海を守りました。義湘が寺を建てようとすると妨害する者たちがいて、善妙が大きな岩を空中に浮かべて追い払ったといわれます。その岩が、無量寿殿の西側にある浮石です。境内には、善妙を祀る小さなお堂もあります。
1916年、無量寿殿の修理中に見つかった墨書には、この建物が高麗の初期に建て直され、1358年に敵の放火で焼けたと記されていました。現在の建物は、その後に円応国師が再建したもので、韓国に残る木造建築のなかでも最も古い部類に入ります。無量寿殿の中の塑造如来坐像が、正面ではなく東を向くように置かれている点も、ほかの法堂とは違います。法堂に入ると、横向きに回って仏像と向き合うことになります。
新羅末に崔致遠が文章を書いたころ、浮石寺は智異山の華厳寺、伽耶山の海印寺とともに、華厳宗を代表する大寺院とされていました。義湘の弟子たちと、その後を継いだ恵哲(ヘチョル)、無染(ムヨム)といった高僧たちが、ここで学んだり、住職を務めたりしました。義湘が最初にこの人里離れた山奥を選んだ理由については、当時の政治情勢と結びつけて、さまざまな解釈が出されています。
義湘は661年に唐へ渡り、長安の南にある終南山の至相寺で、智儼(ジオム)に10年近く華厳学を学びました。670年に彼が帰国の途についた背景には、唐が新羅を攻撃しようとしているという知らせを文武王に伝える目的もあったと伝えられています。浮石寺は、それから6年後に建てられました。高麗時代には、このお寺を宣達寺または興教寺と呼ぶこともありました。
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