慶熙宮(キョンヒグン)は、ソウル鍾路区のソウル歴史博物館の隣にある朝鮮後期の宮殿で、景福宮の西にあることから「西闕(ソグォル)」とも呼ばれました。ソウルの5つの宮殿のなかで最も徹底的に破壊され、もとの建物はほとんど残っていませんが、復元された崇政殿(スンジョンジョン)一帯を無料で静かに見て回れます。混み合う4大宮と違ってひっそりしているので、都心の散歩コースとして訪れる人が多い場所です。
慶熙宮の敷地は、もともと仁祖(インジョ)の父・定遠君(チョンウォングン、のちに元宗〈ウォンジョン〉と追尊)の家でした。ここに王の気運が宿っているという話を聞いた光海君(クァンヘグン)が家を奪い、1617年から宮殿の建設を始めて1620年に完成させました。最初の名前は「慶徳宮(キョンドックン)」でしたが、1760年に英祖(ヨンジョ)が、元宗の諡号と音が同じだという理由で「慶熙宮」に改めました。
仁祖から哲宗(チョルジョン)まで、約10人の王がここに滞在しました。粛宗(スクチョン)はこの宮殿で生まれ、景宗(キョンジョン)・正祖(チョンジョ)・憲宗(ホンジョン)は崇政門で即位しました。英祖は晩年の大半をここで過ごしました。かつては徳寿宮と虹橋(ホンギョ、空中回廊)でつながっていたほど規模が大きく、大小の殿閣が100棟余りにのぼりました。景福宮、昌慶宮(チャンギョングン)とともに朝鮮の3大宮に数えられるほどの大きな宮殿でした。
1829年の火災で多くの殿閣が焼け、1831年に再建されましたが、高宗の時代に景福宮を再建する際に、ほとんどの建物が取り壊されて資材に使われました。その間、空いた宮殿の敷地には造幣所と養蚕所が入りました。1884年にはドイツ人のマエルテンスを雇って養蚕所を任せ、桑の木が植えられた宮殿の敷地は、当時外国人が作った地図に「桑の木公園」と記されたこともあります。1910年には日本人学校の京城中学校が入り、残った建物も散り散りになりました。正殿の崇政殿は1926年に南山の日本の寺に移され、現在は東国大学校の法堂・正覚院(チョンガゴン)として使われています。正門の興化門(フンファムン)は1932年に伊藤博文を偲ぶ寺・博文寺(パンムンサ)の門となり、光復後はホテルの正門として使われたのち、1988年にようやく戻ってきました。ただし、もとの場所ではなく、現在の位置に建てられました。
解放後にソウル高等学校があった敷地は、1980年に学校が移転したのち史跡に指定され、その後、崇政殿・資政殿(チャジョンジョン)・泰寧殿(テニョンジョン)や崇政門などが復元されました。