「宗廟社稷(チョンミョサジク)」という言葉がそのまま国を意味するほど、朝鮮において社稷壇は、宗廟とともに王朝を支える二本の柱でした。景福宮の西、仁王山(インワンサン)の麓にあるソウル社稷壇は、土地の神社(サ)と穀物の神稷(ジク)に、国の祭祀を捧げた祭壇です。景福宮から歩いて行ける距離なのに訪れる人は少なく、都心のど真ん中で静かに朝鮮の国家儀礼に思いをはせられる場所です。
太祖(テジョ)は漢陽(ハニャン)に都を定めるにあたり、「左廟右社(チャミョウサ)」の原則に従って、宮殿の東に宗廟を、西に社稷壇を置きました。工事は1395年に始まり、祭壇と塀、祭祀を準備する建物は太宗(テジョン)の時代に整いました。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のときに祭壇だけが残って建物はすべて焼けましたが、のちに再建され、1897年の大韓帝国の宣布後は、皇帝国にふさわしく祭祀の格も高められました。
日本統治時代の1911年に社稷の祭祀が廃止され、1920年代には祭壇の周りが公園に変わりました。社稷公園の時代には、ここに図書館や子ども向けの施設が建ち、2012年から国家遺産庁が直接管理するようになって、昔の領域をよみがえらせる復元が進められています。西側の殿祀庁(チョンサチョン)エリアは、2022年に復元を終えました。
祭壇の区域は、保護のため普段は自由に入れず、解説員と一緒のときだけ内側に入れます。その代わり、紅箭門と低い塀越しに、二つの祭壇がよく見えます。
土地と穀物の神に豊作を祈る社稷大祭(サジクテジェ)は、国家無形遺産に指定され、今も社稷壇で再現されています。朝鮮時代には、通常は春と秋に祭祀を行い、日照りになれば雨乞いの祭祀もここで行われました。祭官たちが祭礼服を整えて行列する姿は年に1回だけなので、日程が合えばぜひ見ておいてください。
社稷壇はソウルにだけあったわけではありません。太宗の時代に全国各地の邑(ウプ)にも社稷壇を建てさせ、守令(地方官)が土地と穀物の神に祭祀を行いました。今も南原(ナモン)、報恩(ポウン)の懐仁(フェイン)、大邱(テグ)の蘆邊洞(ノビョンドン)のように、地方の社稷壇が記念物として残っています。ソウルの社稷壇は、その頂点にあった国の社稷壇です。1884年にアメリカの外交官ジョージ・クレイトン・フークが慶煕宮の北の丘から撮った写真を見ると、当時の社稷壇は鬱蒼とした森に囲まれていました。