大学路(テハンノ)の北の端、恵化洞(ヘファドン)ロータリーから城北洞(ソンブクトン)へ越える峠道のそばの丘の上に、小さな城門が立っています。漢陽都城(ハニャンドソン)の四つの小門のひとつである恵化門、通称東小門と呼ばれた門です。北の正門である粛靖門(スクチョンムン)が長いあいだ閉ざされていたため、実際にはソウルから北へ旅立つ人がもっとも多く出入りした門でした。現在の姿は1994年に復元されたものですが、天井の鳳凰の絵や、よみがえった昔の扁額など、見ごたえのあるところがたくさんあります。
恵化門は、1396年(太祖5年)に漢陽都城のほかの門とともに建てられ、最初の名前は弘化門(ホンファムン)でした。ところが成宗の時代に新しく建てた昌慶宮(チャンギョングン)の東門も弘化門と呼ばれて混同が生じたため、1511年(中宗6年)に今の名前に改められました。1413年に風水上の理由で粛靖門が閉ざされたあとは、恵化門と彰義門(チャンウィムン)が北門の役割を分け合い、この門を出てミアリ峠を越えると、楊州(ヤンジュ)・抱川(ポチョン)を経て江原道(カンウォンド)や咸鏡道(ハムギョンド)へ続いていました。
朝鮮時代には、女真族の使節がこの門を出入りしたといいます。明の使節が崇礼門(スンニェムン、南大門)を使ったのと対照的な点です。門は武科の試験場としても使われ、国葬のときは葬列が通る道でもありました。
壬辰倭乱で門楼が焼け、しばらく石垣と虹霓(アーチ)だけが残っていました。謙斎 鄭敾(チョン・ソン)が描いた「東小門」にも、門楼のない恵化門が描かれています。1744年(英祖20年)にようやく門楼を再建して扁額を掲げました。日本統治時代の1928年に門楼が取り壊され、1930年代末には敦岩洞(トナムドン)へ向かう電車道と道路を通すために、石垣とアーチまですべて撤去されました。このとき峠を5〜6mほど削り下げたため、地形そのものが変わりました。
現在の恵化門は、1994年に元の場所から北西へ約13m離れた、道路脇の丘の上に復元されたものです。もとの門があった場所は、今は車の通る東小門路になっています。
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