康津(カンジン)の兵営面(ビョンヨンミョン)の野原のまんなかに、長さ1,060mの石の城壁が四角く取り囲む場所が全羅兵営城です。朝鮮の1417年から1895年まで約500年にわたり、済州島を含む全羅道の53州6鎮の陸軍を指揮した総司令部でした。オランダの船員ハメルが7年近く滞在した場所なので、城の隣のハメル記念館とあわせて見ると、話がぐっと豊かになります。
兵営城は、太宗17年(1417年)に初代の兵馬都節制使、馬天牧(マ・チョンモク)将軍が築きました。その後、甲午改革で制度が変わる1895年まで、全羅道と済州島の陸軍を総括する兵馬節度使がここに駐在しました。1894年の東学農民戦争で焼け、翌年に新しい制度によって兵営が廃止されると、城内の建物はすべて消えました。
史跡に指定される頃には城壁の一部しか残っていませんでしたが、1997年の史跡指定を受けて、1998年から復元が始まり、高さ3.5mの城壁と南門、東門が再建されました。城壁の外側を丸く囲む甕城(オンソン)が南門を守っていて、敵が門にまっすぐ近づけないようにした構造を確かめられます。
ハメルの一行は、日本へ向かうオランダ東インド会社の船に乗っていて、済州島に漂着した船員たちでした。漢陽に移されていた一行は、再び地方へ送られ、1656年から1663年までここの兵営で暮らしました。彼らは雑用をしたり、木靴をつくって売ったり、踊って手間賃をもらったりして暮らし、村人や僧侶とも親しくなったといいます。
兵営の村に残る櫛目模様の石垣は、ハメルの一行が積み方を伝えたという話があります。朝鮮の木靴が日本のものと違い、オランダの木靴のように丸太をくりぬいた形をしているため、彼らが伝えたのではないかという推測もあります。
1663年に一行は、麗水(ヨス)の左水営と順天(スンチョン)、南原(ナモン)に分けて移され、そのうち7人が1666年に麗水から脱出に成功します。ハメルが残した記録、いわゆる『ハメル漂流記』は、朝鮮の姿を西洋に初めて詳しく伝えた本になりました。
訪問前に最新情報をご確認ください。