今は蓮と桜の木に囲まれた静かな池ですが、上台浦(サンデポ)はかつて、中国と日本を行き交う船が出入りした、霊岩(ヨンアム)・鳩林村(クリムマウル)の国際港でした。百済の王仁(ワニ)博士が日本へ、新羅の崔致遠(チェ・チウォン)が唐へ旅立った場所と伝わり、すぐ隣の丘では、韓国で初めて釉薬をかけた陶器を焼いた窯跡が見つかっています。海路が途絶えた跡に復元された楼閣と池が、その時代を思い起こさせます。
上台浦は、湖南の名高い古村の一つに数えられる鳩林村の上台村の西にあった港です。周辺の野原は標高2m前後で、満潮時には深さ2mほどの海水が入って船が着けられる、水路の終点でした。全盛期は統一新羅末から高麗初期で、近くの莞島(ワンド)に張保皐(チャン・ボゴ)の清海鎮があった時期と重なります。
18世紀の実学者李重煥(イ・ジュンファン)は『択里志』に、鳩林の海辺から船に乗ると一日で黒山島、さらに一日で紅島、もう一日で可居島に着き、そこから三日で中国の寧波(ニンポー)に着くと記しています。北東の風にうまく乗れば一日で渡ることもでき、新羅末の崔致遠・金可紀(キム・ガギ)・崔承祐(チェ・スンウ)がこの海路で商船に乗せてもらって唐に入り、科挙に及第したと書かれています。ただし、王仁が上台浦から旅立ったという話は説話として伝わるだけで、はっきりした根拠はありません。
港の運命を分けたのは干拓でした。日本統治時代の西湖江(ソホガン)一帯の干拓と、その後の栄山江(ヨンサンガン)河口堰の工事で水路がふさがれ、上台浦は海とつながる港としての機能を失いました。資料によっては、決定的な時期を1939〜1949年の鶴坡農場(ハクパノンジャン)の干拓とみるものもあります。
上台浦が開かれていた時代、鳩林からは名高い人物が何人も出ました。風水地理の大家として知られる僧道詵(トソン、827〜898)がこの村の出身で、高麗の太祖・王建の参謀として活躍した崔知夢(チェ・ジモン、907〜987)も鳩林の人です。村では786年(貞元2年)に刻まれた埋香碑も見つかりました。香木を干潟に埋めて福を祈った海辺の信仰の名残で、これまでに見つかった埋香碑の中で最も古いものです。