全州(チョンジュ)の北、完州(ワンジュ)の所陽面(ソヤンミョン)にある威鳳山城(ウィボンサンソン)は、戦争が起きたときに朝鮮王朝の象徴を守るために築かれた山城です。太祖・李成桂の御真(王の肖像画)と、王室の先祖の位牌を避難させる目的があり、実際に東学農民運動のときにその役割を果たしました。いまは、半月形の虹霓門(ホンイェムン)である西門と城壁の一部、城内の威鳳寺(ウィボンサ)、高さ60mの威鳳滝をあわせて見られます。
威鳳山城は、粛宗元年の1675年から1682年にかけて、険しい山の地形を利用して谷を抱え込む包谷式で築かれました。変乱が起きたときに住民を避難させる軍事的な目的もありましたが、ほかの山城と違い、城内に行宮(仮の宮殿)を置いたことが特別です。全州・慶基殿(キョンギジョン)の太祖の御真と、肇慶廟(チョギョンミョ)の位牌を、緊急のときに移してまつるための場所でした。
1894年に東学農民軍が全州城を占領したとき、実際に御真と位牌をここへ移してきました。行宮はずっと前に取り壊され、いまは残っていません。2006年に国の史跡に指定されました。
威鳳寺は、百済の武王のときの604年に瑞巌大師が建てたという説と、新羅末に崔龍覚(チェ・ヨンガク)という人が寺の敷地で鳳凰が三羽遊ぶのを見て、威鳳寺(囲鳳寺)と名づけたという話があわせて伝わっています。高麗の恭愍王のときの1358年に懶翁和尚(ナオン和尚)が大きく拡張し、普光明殿の扁額は1828年に書かれたといいます。
普光明殿にまつられている木造観音菩薩立像と地蔵菩薩立像は、2026年に宝物に指定されました。1605年に彫刻僧の元悟(ウォノ)ら5人がつくった像で、壬辰倭乱(文禄の役)の直後につくられた菩薩立像のうち、制作年がわかっている最も古い作品です。1989年に盗難に遭いましたが、2016年に取り戻され、失われた宝冠と持物は新しくつくって一緒にまつられています。
完州郡がつくったコジョンシ(干し柿)マシルギルは、威鳳山城から出発して威鳳寺と威鳳滝を通り、東上面(トンサンミョン)の鶴洞村(ハクトンマウル)へ続きます。山城とお寺、滝を一度に歩いてつなぐ道なので、紅葉の時期には特に多くの人が訪れます。