朝鮮王室が使った白磁の土がどこから来たのかをたどっていくと、江原道(カンウォンド)楊口(ヤング)の防山(パンサン)面にたどり着きます。楊口白磁博物館は、この地の600年にわたる白磁の歴史と、王室の窯へ運ばれていた楊口の白土をテーマにした、白磁の専門博物館です。窯跡の調査で確認された40基の古い窯、青華白磁の壺、そして自分で土をこねて焼く体験工房まで、一か所に揃っています。
楊口が器の産地として初めて記録されたのは、1432年の『世宗実録』「地理志」です。全国139か所の磁器所のうち、楊口には二か所あり、県庁の北の乾川(コンチョン)と、防山の東の長坪(チャンピョン)でした。1530年の『新増東国輿地勝覧』では全国の磁器の産地が32か所に減りましたが、江原道では楊口だけが名を連ねていました。
楊口は、器と同じくらい白土でも有名でした。京畿道(キョンギド)広州(クァンジュ)の分院(プヌォン)、つまり王室の器を焼いていた官窯が、楊口の土を使っていたからです。1709年(粛宗35年)に、白土を掘る仕事が大変だとして別の場所の土に替えようとしたところ、器を管理していた司饔院(サオンウォン)が、楊口の土でなければ器が粗くなり傷もできると訴えて、元に戻すよう求めました。朝鮮後期の『六典条例』には、分院が毎年楊口の白土を510石運んで使っていたと記されています。
窯は20世紀まで続きました。1913年4月には長坪里に「陶磁器改良組合」ができて近代式の沙器をつくり、窯業は朝鮮戦争の直前まで続きました。博物館は2006年6月27日に「防山磁器博物館」として開館し、2012年に現在の名前に変わりました。
楊口の白磁の話に欠かせない遺物があります。1932年6月、金剛山の月出峰(ウォルチュルボン)で防火線の工事をしていたところ、石の箱の中から、白磁の大鉢4点と香炉、銀製の舎利器などが一緒に出てきました。鉢には1391年(洪武24年)という年と李成桂(イ・ソンゲ)の発願文が刻まれており、高台の周りに「方山砂器匠沈龍」(防山の沙器匠、シム・リョン)という文字があることから、この器が楊口の防山でつくられた可能性が示されています。これらの白磁は現在、宝物に指定され、国立中央博物館が所蔵しています。
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