鉄原平野の外れの丘の上に、窓がすべて抜け落ちた3階建てのコンクリート建物が立っています。鉄原労働党舎は、解放後に北朝鮮の労働党が建てた建物で、朝鮮戦争で鉄原の市街地がすべて崩れ落ちるなか、骨組みだけが残って今も立っています。砲弾や銃弾の跡がそのまま残る壁の前に立つと、分断の時間が実感できます。
解放後、38度線の北側にあった鉄原は北朝鮮の統治下に入り、一時は北朝鮮の江原道の道庁が置かれた中心地でした。労働党は1946年、鉄原邑の官田里にこの3階建ての党舎を建てました。村ごとにコメ200俵を徴収し、住民の労働力と装備を強制的に動員したうえ、建物内部の工事には秘密を守るため党員だけを投入したと伝えられています。
ここは鉄原・金化(キムファ)・平康(ピョンガン)・抱川(ポチョン)一帯を管轄する中心で、多くの人が閉じ込められ、拷問を受けて命を落とした場所でもあります。戦争後、建物の防空壕からは多くの人の骨や実弾、鉄線が見つかりました。
戦争中の鉄原は最も激しい戦場のひとつで、市街地の建物はほとんど消え去りました。鉄筋、レンガ、セメントで頑丈に建てられた労働党舎は、天井が落ちたまま残りました。休戦後に大韓民国の領土となった鉄原労働党舎は、長らく民間人統制区域の中にあったため取り壊されず、1990年代に統制が解けると観光客が訪れる場所になりました。国家登録文化遺産第22号で、登録年は資料によって2001年または2002年と異なります。