忠州(チュンジュ)の中央塔面(チュンアンタプミョン)にある忠州高句麗碑展示館には、南韓にただひとつの高句麗の石碑、忠州高句麗碑(国宝)が立っています。高さ2m余りの石の塊ですが、5世紀頃に高句麗が南漢江(ナムハンガン)流域まで南下し、新羅を従えていたことを直接示す記録です。入場料なしで30分あれば見て回れるので、近くの中央塔史跡公園とあわせて立ち寄るのにぴったりです。
石碑は長いあいだ、龍田里(ヨンジョンニ)の立石(イプソク)村の入口に立っていました。村の人々にとっては、ただの古い立石でしかなく、表面もひどくすり減っていました。1979年4月、檀国大学校博物館の学術調査団が調査して、高句麗の石碑だと明らかになり、1981年に国宝に指定されました。同じ年の8月に碑閣を建てて保護していましたが、2012年7月に展示館がオープンして、屋内へ移されました。最初の名前は「中原高句麗碑」でしたが、2010年12月に現在の名前に変わりました。
石碑は展示館の中央に、ライトを浴びながら立っていて、周りを一周しながらさまざまな面を間近で見られます。周囲の展示室では、高句麗の歴史と生活、説話を紹介し、安岳3号墳や広開土大王碑のような高句麗の代表的な遺跡、そして忠州高句麗碑を見つけ出した過程を見せています。忠州は、南漢江の水路と峠道をともに押さえる要衝で、高句麗はここを70年以上統治したとみられます。
忠州は、南漢江の水路と、朝鮮半島中部を越える峠道が出会う場所でした。高句麗はここを国原城(クゴォンソン)と呼んで、南への進出の拠点とし、6世紀に新羅がこの地を占領した後には、国原小京、のちに中原京を置きました。2006年に忠州市が世界遺産登録を念頭に置いて「国原高句麗碑」という名前を提案したのも、この歴史のためです。石碑ひとつに、三国が漢江流域をめぐって争った時代が、そのまま詰まっているのです。
訪問前に最新情報をご確認ください。