忠州(チュンジュ)市街の西、南漢江(ナムハンガン)と達川(タルチョン)が出会う場所に、マツ林に覆われた低い山が川に向かって断崖で途切れています。新羅の楽聖于勒(ウルク)が伽倻琴(カヤグム)を弾いた場所とされることから「弾琴台(琴を弾く台)」という名がつき、1592年の壬辰倭乱(文禄の役)で申砬(シン・リプ)将軍率いる朝鮮軍が敗れた悲劇の現場でもあります。音楽と戦争の記憶がひとつの丘に重なった、国指定の名勝です。
弾琴台はもともと大門山(テムンサン)と呼ばれていた小山です。新羅の真興王の時代に伽倻から渡ってきた于勒が、ここの川辺の岩に座って伽倻琴を演奏したと伝わることから、「楽器を弾く台」という意味の名前がつきました。于勒は朴堧(パク・ヨン)、王山岳(ワン・サナク)とともに、韓国の三大楽聖に数えられます。うねる南漢江、奇岩絶壁、うっそうとした松林が調和した景観が評価され、2008年7月9日に国指定名勝となりました。指定面積は289,492㎡です。
『三国史記』によると、伽倻の嘉悉王が伽倻琴をつくり、于勒に曲を作らせましたが、伽倻が衰えると于勒は新羅へ渡りました。真興王は彼を国原(クグォン)、つまり今の忠州にとどまらせ、階古(ケゴ)、法知(ポプチ)、萬徳(マンドク)の3人を遣わして、歌と舞、伽倻琴を学ばせました。伽倻の音楽が新羅の宮中音楽へつながっていく出発点が、まさにこの川辺だったわけです。忠州では今も、于勒の名を冠した于勒文化祭が開かれています。
1592年、釜山と東萊(トンネ)が陥落して日本軍が北上すると、宣祖は当代随一の名将とされていた申砬を三道巡辺使として送りました。従事官の金汝岉(キム・ヨムル)は険しい聞慶セジェ(ムンギョンセジェ)で敵を食い止めようと進言しましたが、申砬は騎兵が強い朝鮮軍が歩兵中心の日本軍を広い平野で迎え撃つほうがよいと考え、忠州の達川平野を戦場に選びました。兵力は『懲毖録』に8千人と記されているなど、資料によって差があります。しかし旧暦4月28日(新暦6月7日)、小西行長率いる日本軍が何手にも分かれて朝鮮軍を包囲し、朝鮮軍はほぼ全滅しました。申砬は川辺の断崖から身を投げたと伝えられています。この敗北で、漢陽(ハニャン)への道は事実上開かれてしまいました。弾琴台の裏手、川側の断崖は十二台(ヨルドゥデ)と呼ばれています。申砬が戦いの最中に熱くなった弓の弦を川の水で冷やし、兵士たちをなだめるために、この崖を12回上り下りしたという話から名づけられました。
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