慶州市内から仏国寺へ向かう道の途中、北側の低い丘のふもとに、四角い墓がひとつあります。丸い墳丘がほとんどの新羅の墓のなかで唯一の四角い墓(方形墳)なので、慶州で古墳をいくつも見てきた人ほど目が留まる場所です。墓のまわりの護石には、鎧をまとった十二支神像が刻まれています。
統一新羅時代の墓で、一辺約9.5m、高さ約2mの正方形の墳丘です。墳丘の下には、よく整えた長い石を3段に積んで周囲をつくり、各面に十二支神像を刻んだ支え石を3つずつ立てています。墓の内部は、横から出入りする横穴式石室で、南壁の東寄りに羨道(墓道)が通っています。遺体を安置した棺台は、板石を組み合わせて西壁に寄せてつくられています。
1920年、盗掘された直後の調査で、金銅の棺飾り、銀製の帯飾り、馬具の飾りなどが出土しました。被葬者は分かっていませんが、護石の構成と彫刻の様式から、統一新羅(668〜935年)末期の王陵か、最高位の貴族の墓と推定されています。護石をそなえた方形墳は高麗前期に広く現れますが、この墓はそれより先立つ姿と評価されています。1963年に史跡に指定されました。
墳丘の下に石をめぐらせて墓を守る方式は三国時代から続く伝統で、統一新羅のとき、慶州の王陵では、これに十二支神像を刻んだ護石がよく使われました。十二支は、十二の方位と時間を守る守護神で、子(ねずみ)が北を受け持つというように、動物ごとに方角が決まっています。人の体に動物の頭をもち、鎧を着た姿なので、墓を取り巻く護衛の武士のように見えます。丸い王陵ではこれらの像が円を描いて並びますが、ここでは四角い墳丘の四面に3つずつ分かれていて、同じ伝統を違う形で示しています。墓の主を特定の王とみる見解もありますが、まだ確定してはいません。
四隅には、もともと別に立てた柱石がありました。そのうち西域人と獅子が刻まれた石は国立慶州博物館に移され、これを根拠に、隅ごとに獅子像と神将像を刻んでいたとみられています。いま墓にある隅石は、新しくつくられたものです。博物館で元の石を先に見てから来ると、墓のもとの姿がよりよく思い浮かびます。