臨津江(イムジンガン)の玄武岩の断崖の上に、草に覆われた高い土手がそびえています。ぱっと見は丘のようですが、三国時代に築かれた城壁です。漣川(ヨンチョン)瓠蘆古塁(ホロゴル)は、川と断崖をそのまま城壁にして築いた三角形の城で、臨津江が高句麗と新羅・百済の国境の川の役割を果たしていた時代の痕跡です。晩夏には城の前がヒマワリ畑に覆われ、夕焼けを見に来る人も多いです。
瓠蘆古塁は、北東から南西へ流れる臨津江と支流が出合ってできた三角形の台地の上にあります。二つの面は川辺の垂直な玄武岩の断崖が天然の城壁の役割を果たし、開けた東側だけを高い城壁でふさぎました。このような形を江岸平地城と呼び、近くの当浦城(タンポソン)や隠垈里城(ウンデリソン)とともに、臨津江・漢灘江(ハンタンガン)流域でしか見られない独特な類型です。
城壁全体の周囲は約400mで、南壁161.9m、北壁146m、現在残っている東壁が93mです。城内は海抜22m前後で、城壁の頂上は30mほどです。最も高い東壁の頂上と西の端には指揮所の将台があり、城に入る門は東壁の南側の一か所だけだったとみられています。
「瓠蘆」(ホロ)はヒョウタンという意味です。臨津江がこの付近でヒョウタンのように曲がりくねって流れるため、一帯の浅瀬を瓠蘆灘(ホロタン)、川を瓠蘆河(ホロハ)と呼び、城の名前もここから来たとみられます。瓠蘆灘は、梅雨時でなければ水が膝ほどの深さで、歩いても馬に乗っても渡れる浅瀬でした。開城(ケソン)からソウルへ向かう最短の陸路がここを通っていたので、川を渡る要所を守るのに、これ以上の場所はありませんでした。
瓠蘆古塁は、5〜7世紀に高句麗が百済・新羅を防ぐために築いた城で、高句麗の南の国境を守る中核の拠点だったとみられています。唯一、川に面していない東壁は、中央を粘土と真砂土で突き固めて築き、内外に石を積んでいますが、これは中国の集安の国内城や平壌の大城山城など、高句麗の城に見られる方式です。のちにこの城を占領した新羅は、古い城壁を壊さず、外側に新しく石を重ねて手直しして使いました。
瓠蘆古塁が三国時代の遺跡だという記録は、1656年(孝宗7年)に刊行された『東国輿地図』に初めて出てきます。1919年の『朝鮮古蹟調査報告』に図面と写真が掲載され、1991〜2003年に本格的な学術調査と発掘が行われました。発掘では、高句麗の秤の分銅や三本足の硯、矢じりや土器、金銅仏像が出土し、貯蔵穴からは焦げた米、豆、粟、そして牛・馬・鹿・犬・イノシシの骨が出て、城内の人々の暮らしぶりを想像させてくれます。韓国戦争の際には、城壁の上部に砲陣地が置かれて一部が損なわれたこともありました。2006年1月2日に史跡に指定されました。