坡州(パジュ)市炭峴(タニョン)面の松林のなかに、朝鮮第16代の王仁祖(インジョ)と最初の王妃仁烈王后(イニョルワンフ)がともに眠る王陵があります。丙子の乱(丙子胡乱)と三田渡(サムジョンド)の屈辱を経験した王の墓という経緯に、蛇と火災のために場所を移した話まで加わり、朝鮮王陵のなかでも話題の多い場所です。2009年にユネスコ世界遺産「朝鮮王陵」のひとつとして登録され、訪れる人が多くないので、静かに王陵を見て回れます。
仁祖は1623年の反正で光海君を追放して王位に就きました。在位中に、李适(イ・グァル)の乱(1624年)、丁卯の乱(1627年)、丙子の乱(1636年)を経験し、南漢山城(ナマンサンソン)で持ちこたえたものの、結局は三田渡で清の皇帝に降伏しました。仁烈王后は1635年、42歳のときに産後の病で亡くなり、昭顕世子(ソヒョンセジャ)と、のちの孝宗(ヒョジョン)を含む6人の息子をもうけました。
長陵は、最初は1636年に坡州の雲川里(ウンチョンニ)の丘に、仁烈王后の陵として造成されました。仁祖はその右側に自分の場所をあらかじめ用意しておき、1649年に亡くなったのちにそこへ葬られて、二つの墳丘が並ぶ双陵になりました。ところが、陵の周りで火災が多く、蛇やサソリが群れをなして石造物の隙間に巣をつくることが続いたため、英祖(ヨンジョ)は1731年に、今の場所へ陵を移すことにしました。このとき、双陵を、世宗の英陵(ヨンヌン)のように、ひとつの墳丘に二人を祀る合葬陵に変えました。
仁祖は追尊された王・元宗(ウォンジョン)の長男で、戦乱のなかでも、摠戎庁(チョンユンチョン)と守禦庁(スオチョン)を新たにつくって、軍事制度を整えました。仁烈王后は、韓浚謙(ハン・ジュンギョム)の娘として1594年に原州(ウォンジュ)で生まれ、1610年に仁祖と結婚し、仁祖が王位に就くと王妃になりました。王妃が亡くなった翌年に丙子の乱が起こったので、長陵が最初につくられた1636年は、朝鮮にとってもっとも過酷な年でもありました。
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