松坡区風納洞のマンション団地のあいだに、草に覆われた長い丘が続いています。ちょっと見ると土手のようですが、百済が漢江のほとりに土を突き固めて築いた、巨大な城壁です。風納土城は、発掘が重ねられるなかで、漢城百済の最初の王城だったという見方が学界の定説になった場所で、ソウルで最も古い都市の痕跡を、近所を散歩するように歩きながら見られます。
この土城が注目されるきっかけとなったのは、1925年の乙丑年の大洪水でした。漢江があふれて西側の城壁付近が流され、中国製の青銅の柄付き鍋や帯の飾りなど、上流階層の遺物が次々と出てきました。1963年に国の史跡に指定されましたが、指定されたのは城壁だけで、城の内側は住宅街として開発されました。
転機は、1997年にマンションの工事現場から百済の土器が出てきたことで始まりました。その後、城の内側の発掘で、大型の建物跡や道路、上水道とみられる土管、百済で最初の地上式の瓦建物跡が確認され、慶堂(キョンダン)地区では祭祀遺跡とともに、供物とみられる馬の頭12個が出土しました。「大夫」という文字を刻んだ壺も見つかりました。
もともとの周囲は約3.5kmでしたが、漢江に面した西側の城壁が失われ、いまは約2.1kmが残っています。発掘してみると、城壁の基礎部の幅は43m、高さは11mを超えていました。底に泥土を敷いて基礎を固めたあと、粘土と砂質土を何層にも突き固めて積み上げる版築という工法で築かれ、あちこちに植物や砂利を敷いて補強されていました。城壁を断ち切って通る道路のところでは、この土の層を断面で見られます。
風納土城がいつ、誰によって築かれたのかについては、いまも研究が続いています。1939年には、王城ではなく軍事用の城とみる見解が出て、1980年代に南側の夢村(モンチョン)土城から百済の遺物が出ると、慰礼城(ウィレソン)の位置をめぐって意見が分かれました。炭素年代測定では、紀元前2世紀から紀元後3世紀のあいだの築造とされており、城を築くのにのべ100万人近くが動員されたはずだという推定が、王城説の根拠として挙げられることもあります。発掘が重ねられるほど、王城とみる側に重みが増しています。