莞島(ワンド)の南の海に浮かぶ所安島(ソアンド)は、「抗日の地、解放の島」と刻まれた標石が船を出迎える島です。日本統治時代に、住民の数に比べて非常に多くの独立運動家を輩出した場所で、今も一年中どの家にも太極旗を掲げている村の風景で知られています。島を行き来する旅客船の名前も、大韓号、民国号、万歳号です。
所安島に人が住み着いたのは16世紀半ばです。金海金氏(キメキムシ)と同福呉氏(トンボクオシ)が最初に月項(ウォルハン)に入って暮らし始め、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のときに戦乱を避けてきた人々が加わりました。当時、島は「達木島(タルモクト)」と呼ばれていたそうです。朝鮮王朝実録には、罪人や逃亡者が隠れ住む島、倭寇の侵入が頻繁な島として記録されています。2013年時点の住民は約2,860人で、そのうち1,059人が65歳以上でした。
抵抗の最初の火種は1909年に上がりました。東学軍出身の李俊夏(イ・ジュナ)ら6人が、日本が隣の唐沙島(タンサド)に建てた灯台を襲撃した事件が、所安島の抗日運動の始まりとされています。所安島の人々の闘いは、土地を守ることにも広がりました。1905年に島の土地が親日派貴族の李埼鎔(イ・ギヨン)に渡ると、住民たちは1909年に訴訟を起こし、1922年にようやく勝訴しました。その間の1913年に、宋乃浩(ソン・ネホ)らが設立した私立の中華学院は、勝訴後に住民の寄付金によって私立所安学校へと成長し、ここで多くの独立運動家が育ちました。1920年代には、住民約2,000人のうち800人ほどが日本に「不逞鮮人」の烙印を押され、監視を受けたといいます。所安島出身の独立運動家は88人とされ、そのうち20人が独立有功者として叙勲されました。
所安島は面積約23㎢で、北の大峰山(テボンサン)と南の駕鶴山(カハクサン、359m)が島の骨格をなしています。2つの山の間は、標高5mにも満たない低い土地でつながっていて、面事務所がそのくびれた場所にあります。岩山が海と接するところはほとんどが険しい断崖で、北側の海岸には干潟と塩田があります。島全体が多島海海上国立公園に属しています。
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