壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のとき、幸州山城で日本軍を破った都元帥権慄(クォン・ユル、1537〜1599)が眠る墓所です。楊州(ヤンジュ)長興(チャンフン)の静かな丘に、将軍の墳丘と2人の夫人の墓、朝鮮時代の石物が順に並んでいます。華やかな見どころはありませんが、幸州山城を訪れた方なら、物語の最終章を見に来るのにぴったりの場所です。
権慄は、領議政を務めた権轍(クォン・チョル)の息子として生まれましたが、45歳ごろの1582年にようやく科挙に合格して官職に就きました。壬辰倭乱が起こる直前には、義州牧使として北方を守っていました。戦争が始まると、全羅道で兵を集めて禿山城(トクサンソン)に陣を敷き、日本軍が西へ進む道を阻みました。
1593年には、ソウルを取り戻すために幸州山城へ陣を移し、軍と民が力を合わせて、3万人に及ぶ日本軍を撃退しました。この幸州大捷は、晋州大捷、閑山島大捷とともに、壬辰倭乱の三大大捷に数えられます。その後は都元帥として戦争を率い、1599年に亡くなった後に領議政を追贈され、1604年には宣武功臣一等に叙されました。「鰲城と漢陰」(オソンとハヌム)の話で有名な李恒福(イ・ハンボク)が、彼の婿です。
墓所は1972年に京畿道の記念物に指定されました。子孫が今もここを訪れ、将軍を偲んでいます。
朝鮮時代の士大夫の墓の前にある石物には、それぞれ意味があります。床石は祭祀の供物を並べる石の台で、香炉石は香炉を載せる台です。童子石は墓の主に仕える子どもを、文人石は官服を着た文臣を表し、両側の望柱石は遠くからでも墓の場所が分かるように立てた石柱です。権慄は武将として名を上げましたが、科挙に合格した文臣だったため、墓所に武人石ではなく文人石が立っている点にも注目してみてください。