密陽江(ミリャンガン)が曲がりくねって流れる断崖の上に、翼を広げたように立つ嶺南楼は、晋州(チンジュ)の矗石楼(チョクソンヌ)、平壌(ピョンヤン)の浮碧楼(プビョンヌ)とともに、朝鮮の三大楼閣に数えられています。貴賓を迎えて宴を開いた客舎の付属建物で、2023年12月に宝物から国宝に昇格しました。楼に上がって川を見下ろすと、なぜ数多くの詩人や名筆家がここに文を残したのかが、すぐに分かります。
この場所には、もとは新羅の時代に建てられた嶺南寺というお寺があったといいます。お寺がなくなったのち、高麗の時代に楼閣が建てられ、1365年ごろ、密陽府使の金湊(キム・ジュ)が建て直して、お寺の名前から嶺南楼と呼んだと伝わります。朝鮮の1460年には、府使の姜叔卿(カン・スクキョン)が規模を広げて建て直し、申叔舟(シン・スクチュ)がその由来を文に残しました。
嶺南楼は何度も焼失しました。1582年に戦火で焼け、1637年に再建され、1842年に失火で再び焼けたのち、今の建物が建てられました。今の建物の建立年は、資料によって1844年または1884年です。密陽は、漢陽(ハニャン)と東莱(トンネ)を結ぶ嶺南大路の道筋にあったため、行き来する官吏がこの客舎に泊まりました。1931年には「朝鮮十六景」のひとつに選ばれたこともあります。
嶺南楼一帯は、毎年密陽アリラン大祝祭と、密陽文化財夜行の舞台になります。嶺南楼という名前の「嶺南」は、この地域の呼び名でもあります。
嶺南楼は、朝鮮後期の楼閣のなかでも、建築美と規模の面で代表的な建物とされています。本楼を中心に、両脇に凌波閣と枕流閣を従えた構成は、ほかの楼閣ではなかなか見られない姿です。今の建物を再建した際の上梁文は秋南(チュナム)李璋漢(イ・ジャンハン)が書き、工事を終えたあとに金弘根(キム・ホングン)が書いた上梁文が扁額として掛かっています。楼閣の中で、こうした扁額の書体を見比べてみるのも、嶺南楼の楽しみ方のひとつです。
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