休戦ライン(軍事境界線)からほど近い江原道・高城(コソン)の山裾にある乾鳳寺は、金剛山(クムガンサン)の山並みが始まる場所にあることから「金剛山乾鳳寺」と呼ばれています。かつては3,183間に及ぶ大寺院でしたが、朝鮮戦争で門ひとつを残してすべて失われました。釈迦の歯の真身舎利を祀るお寺であり、戦後長いあいだ民間人が立ち入れなかった場所でもあるため、ほかの山寺とは趣の異なる物語を秘めています。
お寺の始まりは、520年に新羅の法興王の時代、僧の阿道(アド)が建てた円覚寺(ウォンガクサ)と伝えられています。ただ、当時この地域は高句麗の領土だったため、三国時代の多くの寺院と同じく、創建の話は伝説に近いとする見方もあります。758年には僧の発徴(パルジン)が寺を建て直し、1万日にわたって念仏修行をする万日念仏会を開きました。これが韓国の念仏万日会の始まりとされています。以来、乾鳳寺は代表的な念仏道場として名を伝えてきました。
1358年、高麗の恭愍王の時代に懶翁和尚(ナオン)が中興して、現在の名「乾鳳寺」になりました。朝鮮の世祖が1456年にここへ行幸し、王室の安寧を祈る願堂としたことで、寺はさらに大きくなりました。壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のときは四溟大師(サミョン)が僧兵を挙げた場所で、日本に奪われていた仏の歯の舎利を四溟大師が取り戻してここに祀ったと伝わります。1906年には新しい学問を教える鳳鳴学校(ポンミョン学校)を設立し、日本統治期には31本山のひとつとして、この地域の仏教の中心でした。
朝鮮戦争で高城一帯が約2年にわたる激しい攻防の場となり、1920年に建てられた不二門(プリムン)を除くすべての建物が崩れ、廃墟となりました。休戦後、寺の跡は民間人統制線の北側に置かれ、長いあいだ釈迦誕生日の1日しか出入りできませんでしたが、1989年にようやく自由に出入りできるようになりました。1994年から復元が始まり、現在の姿に至っています。
乾鳳寺は、壬辰倭乱で僧兵を挙げた場所であり、日本統治期の抗日運動の拠点のひとつでもあったことから、護国寺院とも呼ばれます。鳳鳴学校は関東地域の新教育の中心でしたが、日本により強制的に閉鎖されました。朝鮮後期の1878年には大火で寺がすべて焼け、翌年に再建されたこともあります。現在見られる建物の大半は1990年代以降に新しく建てられたもので、古い殿閣というより、広い境内跡と生き残った不二門、陵波橋が伝える時間の深さを感じながら巡る場所です。