李舜臣将軍が生涯最後の陣営を構えた島が、莞島の高今島(コグムド)です。丁酉再乱(慶長の役)の最後の年、1598年に、朝鮮水軍と明の水軍がこの島の東にある妙堂島に共に陣を敷き、露梁海戦で戦死した将軍の遺体もここに戻って留まりました。2007年に高今大橋が架かってからは、康津から車で数分で渡れるようになりました。
1598年2月17日、李舜臣は水軍8,000人あまりを率いて、高下島(コハド、現在の木浦=モクポ)から高今島へ陣営を移しました。海路を守るのに適した要衝で、将軍がここに腰を据えてからは、長興(チャンフン)や高興(コフン)一帯を荒らしていた倭軍が順天(スンチョン)方面へ退き、大きな戦いはまれになりました。将軍はその間に本営を築き、避難民を受け入れることに力を注ぎました。柳成龍(リュ・ソンニョン)は『懲毖録(ちょうひろく)』に、高今島に集まった民家が数万戸にのぼり、閑山島(ハンサンド)時代の10倍に達したと記しています。
同じ年の7月16日には、明の将軍陳璘(ちんりん)が水軍5,000人を率いて到着しました。両国の軍が妙堂島に共に陣を敷いたことで、ここは約7か月にわたって朝鮮と明の連合水軍の本部となりました。連合艦隊は9月に順天の倭橋城(ウェギョソン)攻略に向かい、10月に高今島へ戻って態勢を立て直し、11月に露梁へ出陣しました。
1598年11月19日(新暦12月16日)の朝、李舜臣は露梁海戦で54歳の生涯を終えました。遺体は高今島に運ばれ、妙堂島の月松台に安置されて、翌1599年2月11日に故郷の牙山(アサン)へ旅立ちました。ここに留まった期間は、資料によって10日とも88日ともいわれます。月松台の跡には今も草が生えない、という話が伝わっています。
妙堂島一帯は1963年に国の史跡に指定されました。
高今島は面積約40㎢、海岸線の長さ54.5kmという、かなり大きな島です。北西には高さ140〜226mの険しい岩山がそびえ、南東は低く平らです。周辺の海ではカキやノリの養殖がさかんです。康津の馬良面(マリャンミョン)、莞島の若山面(ヤクサンミョン)、莞島邑方面と3本の橋でつながっていて、高今大橋ができる前は40分以上も船に乗る必要があった道のりが、今では車で5分あれば十分です。