寧越(ヨンウォル)の町なか、中央路のまん中の銀杏の木のそばに、2階建ての楼閣がひとつと、古い官衙の建物が立っています。王位を奪われて寧越に流された幼い王端宗(タンジョン)が、詩を詠んで悲しみを慰めたという子規楼(チャギュル)と、彼が生涯を終えた場所と伝えられる観風軒(クァンプンホン)です。清泠浦(チョンニョンポ)と荘陵(チャンヌン)のあいだにあり、寧越の端宗の物語をつなぐ中間の環のような場所です。
端宗(在位1452〜1455)は、叔父の世祖に王位を譲ったのち、1457年に魯山君(ノサングン)に降格され、寧越の清泠浦に流されました。その年の夏に大水が出たため、住まいを町なかの観風軒に移し、同じ年にここで16歳のときに賜死(毒の杯)を受けて亡くなったと伝えられています。観風軒は、朝鮮時代に地方の公務を行った官衙の建物で、寧越の客舎の東の建物として建てられたともいいます。いまは曹渓宗・報徳寺(ポドクサ)の布教堂として使われています。
観風軒から50mほど離れた子規楼は、もとは1428年(世宗10年)に郡守の申権勤(シン・クォングン)が建てた楼閣で、最初の名前は梅竹楼(メジュンヌ)でした。端宗はこの楼閣によく上って「子規詩」を詠みました。子規は、血を吐くように悲しげに鳴くというコノハズク(ソッチョクセ)を指します。追われた自分の境遇をその鳴き声に重ねた詩があまりにも悲しく、人々は楼閣の名前を子規楼に変えて呼ぶようになったといいます。その後、楼閣は崩れて跡地に民家が建ちましたが、1791年(正祖15年)に江原道観察使の尹師国(ユン・サグク)が跡地を探し出して再建しました。二つの建物は1971年に江原道有形文化財にいっしょに指定され、いまは江原特別自治道有形文化遺産です。
寧越には、端宗の最後の数か月をたどる遺跡が集まっています。川が三方を巡り、船でしか出入りできない流刑地の清泠浦、町なかの観風軒と子規楼、そして墓の荘陵です。端宗が亡くなったあと、誰も遺体を引き取れずにいたとき、寧越の戸長(地方役人)厳興道(オム・フンド)が遺体を収めて山に埋めたと伝えられています。その場所がいまの荘陵で、墓が正式に封墳を整えたのは59年後の1516年(中宗11年)のことです。観風軒の前に立ってこの話を思い出すと、町のまん中の小さな建物が、端宗の物語のまさに中心にあることが実感できます。