南山(ナムサン)の東の麓、東大入口(トンデイックク)駅のすぐ前にある奨忠壇公園は、いまでは散歩や運動を楽しむ地元の公園ですが、始まりは国のために命を落とした人々をたたえる祭壇でした。1900年、高宗が乙未事変(ウルミサビョン)で命を失った臣下や軍人たちのために建てた「奨忠壇」が、公園の名前の由来です。公園内には、世宗の時代に清渓川(チョンゲチョン)に架けられていた石橋の水標橋(スピョギョ)が移されていて、朝鮮初期の橋を間近で見られます。
1895年に明成皇后が殺害された乙未事変のとき、宮殿を守って命を落とした訓練隊連隊長の洪啓薫(ホン・ゲフン)、宮内府大臣の李耕稙(イ・ギョンジク)らをたたえるため、高宗は南山の下の軍営だった南小営(ナムソヨン)の跡に奨忠壇を建て、春と秋に祭祀を行わせました。のちには、壬午軍乱(1882)と甲申政変(1884)で犠牲になった人々もいっしょに祀りました。大韓帝国が国の立場で建てた最初の追悼施設と評価されている場所です。
日本の影響力が強まるにつれて、1908年に祭祀が途絶え、1919年ごろには、一帯に桜の木を数千本植えて日本式の公園に変えました。1932年には近くに、伊藤博文をたたえる寺・博文寺まで建てられました。解放後、博文寺と日本軍の銅像は撤去されましたが、祭壇の建物は朝鮮戦争で破壊されました。祭壇があった正確な場所は残っておらず、いまは公園の南端の子ども野球場の向かい側あたりと推定されています。
広い敷地のおかげで、奨忠壇公園は現代政治史の舞台にもなりました。1957年5月、野党の時局講演会に政治ゴロが乱入した「奨忠壇集会事件」がここで起こり、1971年4月の大統領選挙では、金大中(キム・デジュン)候補の大規模な遊説が開かれました。歌手の裵湖(ペ・ホ)の歌「アンゲ・キン・チャンチュンダン・コンウォン」(霧のかかる奨忠壇公園)でも名が知られました。
公園内の奨忠敬老堂の地下1階には、奨忠壇の設立と受難、保存の過程を写真と文書、映像で見せる展示室「奨忠壇、記憶の空間」があります。月〜土曜日の10:00〜17:00に開いていて(13:00〜14:00は昼休み)、日曜日と祝日は休み、観覧は無料です。