東大門歴史文化公園から退渓路(テゲロ)に沿ってちょっと歩くと、車が行き交う大通りのそばに、単層の門楼をのせた小さな城門が現れます。光熙門は、朝鮮の首都・漢陽(ハニャン)を囲んでいた漢陽都城の南東の門です。崇礼門(スンネムン)や興仁之門(フンインジムン)より小さくて静かですが、都城の人々の死とつながる独特の歴史を持っています。
光熙門は、1396年に漢陽都城を築いたとき、あわせて建てられた門です。名前は「光が遠く四方を照らす」という意味です。清渓川(チョンゲチョン)の水が都城の外に抜ける水口に近いため、水口門(スグムン)とも呼ばれました。都城の中には墓をつくることができなかったため、葬列は西の昭義門(ソウィムン)とこの門から出ていき、そこから、遺体が出ていく門という意味の屍口門(シグムン)というあだ名がつきました。丙子の乱のとき、仁祖が南漢山城へ避難する際にこの門を通ったという記録もあります。
戦乱で門楼が失われたあと、粛宗の時代の1711年から再び積み直され、1719年以前には門楼まで完成しました。日本統治時代の1928年に門楼が撤去され、1975年には道路拡張のため、もとの場所から南に移して、門楼とともに復元しました。移した距離は、資料によって12mまたは15mと伝わっています。2014年に、39年ぶりに一般公開が再開されました。
朝鮮後期には、病人を隔離して治療していた機関である東活人署(トンファリンソ)が光熙門の外に移ってきました。活人署は、病気で亡くなった人を埋葬する仕事も担っていたため、門の外側の丘陵地には墓がびっしりと並びました。そのため光熙門は不浄の門と見なされることもあり、漢陽都城の門を数えるとき、この門を除いて「8門」と呼ぶこともありました。近くの新堂洞(シンダンドン)という地名が、こうした死のイメージにまつわる巫女の集落に由来するという解釈もありますが、ひとつの説として伝えられています。