壬辰倭乱(文禄・慶長の役)のさなかに起きた李夢鶴(イ・モンハク)の乱を鎮圧した武臣、任得義(イム・ドゥグィ、1558〜1612)の肖像画と位牌をまつる祠です。洪城(ホンソン)の西部面の青龍山(チョンニョンサン)のふもとで、将軍の墓、神道碑とともにひとつの墓域をなしていて、功臣の家門の記憶を一か所で見られます。
任得義は、平沢任氏の出身で、朝鮮中期の武臣です。壬辰倭乱が長引き、戦争と凶作に疲れた民心が揺れていた1596年(宣祖29年)7月、李夢鶴が忠清道の鴻山(現在の扶余郡鴻山面)で反乱を起こし、洪州城へ押し寄せてきました。任得義は、洪州牧使の洪可臣(ホン・ガシン)らとともに城を守って反乱軍を鎮圧し、その功績で清難功臣3等に叙され、平城君に封じられました。その後、忠清水虞候、慶尚右道兵馬節度使などを務めました。
李夢鶴の乱は、壬辰倭乱のさなかに起きた最大の内乱とされています。反乱軍は鴻山を皮切りに、林川(イムチョン)、青陽(チョンヤン)など忠清道の村を次々と占領して勢力を広げましたが、洪州城の攻撃に失敗して崩れ、李夢鶴は部下の手で命を落としました。戦争中に国内で起きた反乱を防いだ功績だったため、功臣への叙任が続きました。
功績は一族全体におよびました。任得義が功臣になったことで、兄弟や甥など17人が清難原従功臣に名を連ね、平沢任氏は忠清地域の名門になりました。
祠の名前の「旌」の字は、乱れを静めるという意味をもつ字で、乱を平定した将軍の功績を思い起こさせます。旌忠祠は1632年に最初に建てられ、建物が古くなって1872年に建て直されたものが、いまの祠です。2009年10月20日に忠清南道の文化遺産資料に指定され、今も子孫である平沢任氏平城君派の門中が管理しています。
祠の近くの青龍山には、任得義将軍の墓があります。墓は1995年に、忠清南道の文化遺産資料として別に指定されました。墓域の入口にある神道碑は1917年に建てられたもので、碑文は韓末の文臣であり義兵将でもあった金福漢(キム・ボッカン、1860〜1924)が書きました。祠と墓、碑を順に見て回ると、ひとりの武官とその一族が、どのように記憶されてきたかを自然とたどれます。