正祖(チョンジョ)が父・思悼世子(サドセジャ)の墓がある水原(スウォン)へ向かう途中で休み、「景色が美しく体が安らぐ」として名前まで授けた、果川(クァチョン)の古い客舎です。冠岳山(クァナクサン)のふもとに残るこの建物からは、果川が漢陽(ハニャン)の南の関門にあたる町だった時代をしのぶことができます。
客舎(客舎=官舎の迎賓施設)とは、町ごとに王を象徴する殿牌(チョンペ)を祀り、地方官が毎月の1日と15日に拝礼を行った場所です。公務で町を訪れた官吏たちの宿舎も兼ねていたため、町の中心に格式を整えて建てられました。穏穏舎も、中央の正庁3間を軸に左右に3間ずつ翼棟を配し、正庁の屋根を両脇より少し高く上げた、典型的な客舎の姿をしています。
現在の建物は、1649年(仁祖27年)に果川県監の呂仁弘(ヨ・インホン)が建てました。正祖は、思悼世子の墓を水原に移して顕隆園と名を改めたのち、参拝に向かうたびにここに泊まりました。そして1790年、休息中とても安らかに過ごせたとして、客舎に「穏穏舎」という名を授けました。「穏穏」とは、景色が美しく体が安らぐという意味です。地方官が政務を執った東軒(トンホン)には、果川の古い名にちなんだ「府林軒(プリムホン)」の名がつけられ、2つの扁額はいずれも正祖自らが書いたと伝わります。
漢陽から南へ下る道は、南泰嶺(ナムテリョン)を越えるとすぐ果川に着きました。そのため果川は、三南(サムナム)地方へ向かう人々が最初に通る町であり、水原の顕隆園を往来した正祖の行列もこの道を通りました。朝鮮後期、穏穏舎一帯には果川県の官庁と客舎がそろっていました。いまは客舎の建物だけが残りますが、面積187㎡のこの建物が、町の行政の中心がどこにあったのかを教えてくれます。建物の前に立ったら、まず中央の正庁の軒に掛かる「穏穏舎」の扁額を探してみてください。正庁の屋根が両側の翼棟より一段高くそびえているのも、客舎建築の特徴です。
朝鮮末期の高宗の時代には、果川郡の官庁としても使われました。もとは旧中央洞事務所の場所にありましたが、1986年に現在の場所へ移築されました。それに先立つ1980年6月2日には、京畿道の有形文化遺産に指定されています。客舎のそばには樹齢600年を超えるイチョウが立っていて、秋になると黄色く色づいた葉と丹青(華やかな彩色)がよく映えます。