雉岳山(チアクサン)の東麓、江臨川(カンリムチョン)が蛇行して流れる断崖の上に、極彩色の丹青を施した小さな碑閣がひとつ立っています。横城太宗台は、朝鮮の3代国王太宗・李芳遠(イ・バンウォン)が昔の師耘谷・元天錫(ウンゴク・ウォン・チョンソク)を訪ねてきたものの、ついに会えずに留まった場所と伝えられています。見どころは多くありませんが、王でさえ曲げられなかったひとりの学者の頑固さが込められた物語のおかげで、雉岳山へ向かう途中に立ち寄る価値があります。
元天錫は高麗末期の学者で、若き李芳遠を教えた師でした。高麗が滅び、朝鮮が建国されると、官職をすべて断って開城(ケソン)を離れ、ここ江臨里に隠れ住みました。伝えられるところでは、山あいで草の根や木の皮で食いつなぎながら暮らしていたといいます。
王位についた太宗は、昔の師をもう一度呼び寄せて登用しようと、自ら江臨まで訪ねてきました。しかし元天錫は会うのを避けて山中に身を隠し、川辺で洗濯をしていたおばあさんに、自分が行った方向を逆に教えてほしいと頼んだといいます。太宗はおばあさんが指さした岩のところでしばらく待ちましたが、師に会うつもりがないと知って引き返しました。王が留まった場所ということで、最初は駐蹕台(チュピルデ)と呼ばれ、のちに太宗台と名前が変わりました。「駐蹕」とは、王が行幸の途中でしばらく留まることを意味します。
元天錫は、高麗が滅んだ後に新しい王朝に仕えず、隠れて暮らした学者のひとりに数えられます。伝えられるところでは、雉岳山の山頂近くに祭壇を築き、散り散りになっていた杜門洞(トゥムンドン)の72人を集めて、高麗王朝の魂を慰める祭祀を行ったといいます。のちに太宗が彼を再び宮廷に呼んだとき、兄弟を殺して王位についたことを無言でとがめるかのように、白い喪服姿で現れたという話も残っています。王と師の間のこうした張り詰めた緊張が、江臨一帯のあちこちの地名となって残ったともいえます。
太宗台は1984年に江原道の文化財資料に指定されました。