1988年、蔚珍(ウルチン)の竹辺面(チュクビョンミョン)鳳坪里(ポンピョンニ)の田んぼで土を掘って運んでいたとき、びっしりと文字が刻まれた細長い石が現れました。村の住民が気づいて届け出たこの石が、蔚珍 鳳坪里新羅碑で、新羅の法興王の時代、524年に建てられたとみられる国宝です。新羅が東海岸へ領土を広げていた時代に、新たに編入された村で起きた抵抗とその処罰を記録した、1,500年前の貴重な公文書です。
当時の新羅は東海岸に悉直州(シルジクチュ)を置き、いまの蔚珍一帯を新たに編入しました。住民がこれに反発して立ち上がると、新羅は六部の会議を開き、大人(テイン)を派遣して罰を与え、二度と逆らえないようにするためにこの碑を建てたものと解釈されています。碑文に出てくる村「居伐牟羅(コボルモラ)」はいまの鳳坪一帯と考えられていて、碑は1,500年前に事件が起きたまさにその村で、ふたたび世に現れたことになります。碑文には法興王を「寐錦王(メグムワン)」と呼び、いくつもの部の貴族がともに命令を出している様子が記されており、王権がまだ絶対的ではなかった新羅初期の政治をうかがえます。奴人法などの法条項や杖で打つ刑罰も記されていて、法興王が律令を頒布したという『三国史記』の記録を裏づける資料となりました。
碑は、田んぼに新しく土を入れる作業中に掘り出され、2〜3か月のあいだそのまま置かれていました。不思議に思った村の住民が届け出たことで正体が明らかになり、発見された年の1988年11月にただちに国宝に指定されました。長く地中に埋まっていたおかげで元の姿はよく残りましたが、文字の一部はすり減っていて、いまも学者によって読み方が少しずつ異なります。新羅風に変形した独特の漢文が使われているため、全体のあらすじしか推測できない部分もあります。
碑は、加工していない花崗岩の自然石の一面に文を刻んだもので、長さは204cmです。全体の形は台形に近く、文字は10行で400字近くあります。書体は楷書に隷書の名残があり、規模は小さいものの、素朴な姿が高句麗の広開土王碑に似ているという評価もあります。長く地中に埋まっていて一部の文字はすり減っていますが、近くに立つと、行に沿って刻まれた文字の列がはっきり見えます。
碑はいま、発見場所の近くに2011年にオープンした展示館の中に保管されています。第1展示室では本物の碑と拓本を見られ、第2展示室では、新羅6基、高句麗1基、百済3基など、三国の主要な碑10基を再現した模型を見比べられます。屋外の碑公園には、三国時代から朝鮮時代までの国宝・宝物級の碑の模型25基と、蔚珍地域の頌徳碑45基が並んでいて、「碑の博物館」と呼べるほどです。