八公山の南の麓、桐華寺(トンファサ)と把溪寺(パゲサ)の間にある、静かな寺です。規模は大きくありませんが、高麗時代に韓国で最初の大蔵経である初雕大蔵経を保管していた寺と伝えられ、新羅の善徳女王の影幀(肖像画)をまつって毎年祭祀を行う、めずらしい伝統が続いています。寺の下の斜面には、かつての大伽藍の石垣と幢竿支柱が残っていて、往時の規模を想像させてくれます。
寺に伝わる創建説話によると、符仁寺は646年、善徳女王が皇龍寺(ファンニョンサ)の九層木塔を建てた翌年に、王自らが建てたといいます。昔から善徳女王をまつった祠堂・善徳廟があることで、この話に重みが加わります。今は崇慕殿(スンモジョン)に女王の影幀をまつり、毎年春に善徳女王崇慕斎を行っています。2026年5月1日には第40回の崇慕斎が行われ、新羅の王に仏教の儀礼で祭祀を行う、めずらしい行事とされています。2014年からは、名前を「祭(チェ)」から、仏教の儀礼を意味する「斎(チェ)」に改めて呼んでいます。
高麗は、契丹の侵入を仏の力で退けようとして大蔵経を刻み、この初雕大蔵経は11世紀末に完成して符仁寺に保管されたと伝えられています。しかし、1232年のモンゴルの2回目の侵入のときに、経板がすべて焼けてしまいました。その後、改めて刻まれたものが、今、陝川(ハプチョン)の海印寺(ヘインサ)にある八万大蔵経(再雕大蔵経)です。新羅と高麗のころ、符仁寺は建物80棟あまり、庵39か所に、僧侶2,000人あまりが暮らしたと伝えられ、僧侶たちが物を売り買いした僧市(スンシ)が開かれた場所だという話も残っています。今は、この伝統を受け継いで、近くの桐華寺で僧市祭りが開かれています。1203年には武臣政権に対抗する「符仁寺僧徒の乱」が起こったほど、高麗時代のこの寺の僧侶たちは大きな勢力を築いていました。
寺は壬辰倭乱のときに再び焼け、1930年代初め、比丘尼の許相得(ホ・サンドゥク)和尚が、もとの寺の跡から北西へ約400m登った古い庵の跡に、今の符仁寺を建てました。朝鮮戦争でまた焼けた後、1959年に再建されました。