1592年4月、日本軍が釜山に上陸し、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)が始まりました。まず釜山鎮城と東萊城(トンネソン)が攻撃を受け、城を守っていた武将や役人、民が、この戦いで命を落としました。東萊区の安楽洞(アンナクトン)にある忠烈祠は、このとき釜山地域で殉節した人々の位牌を祀った祠堂です。松に囲まれた広い境内は、都心の真ん中で静かに歩ける空間でもあります。
忠烈祠の始まりは1605年です。東萊府使の尹暄(ユン・フォン)が、東萊邑城の南門内に、東萊府使宋象賢(ソン・サンヒョン)を祀る祠堂宋公祠を建て、毎年祭祀を行いました。宋象賢は、東萊城の戦いで最後まで城を守って亡くなり、道を貸してほしいという日本軍に「戦って死ぬのは易しいが、道を貸すのは難しい(戰死易 假道難)」と答えたという話で有名です。
1624年、朝廷はこの祠堂に忠烈祠という名前を下賜し、釜山鎮城で殉節した僉使鄭撥(チョン・バル)も、ともに祀ることになりました。1652年には祠堂を現在の場所に移して講堂と東西斎を建て、安楽書院と呼び、祭祀と教育をともに担う場所となりました。その後、1772年には、多大鎮(タデジン)で殉節した僉使尹興信(ユン・フンシン)も祀りました。現在の姿は、1976〜1978年の整備事業を経たものです。
1709年には、宋象賢、鄭撥とともに戦って亡くなった梁山(ヤンサン)郡守の趙英圭(チョ・ヨンギュ)、東萊教授の盧蓋邦(ノ・ゲバン)、儒生の文徳謙(ムン・ドッキョム)、裨将の宋鳳寿(ソン・ボンス)と郷吏、民の位牌を祀る別祠を、昔の宋公祠の跡に建て、1736年にこれらの人々を忠烈祠にともに祀りました。1865年に興宣大院君が全国の書院の大部分を撤廃したときにも、安楽書院は撤廃を免れました。忠烈祠は1972年に釜山広域市の有形文化遺産第7号に指定されました。
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