松林に囲まれた稜線の上、丸い墳丘の下をぐるりと一周してみると、12の動物の頭をした守護神たちが、みな同じ方向に顔を向けています。慶州金庾信墓は、新羅の三国統一を導いた将軍金庾信(キム・ユシン、595〜673)の墓と伝わる場所で、臣下の墓でありながら、王陵に匹敵する規模と装飾を備えています。
金庾信は、新羅に降伏した金官伽倻(クムグァンカヤ)の王族の子孫です。金春秋(キム・チュンチュ、のちの太宗武烈王)と婚姻で結ばれて政治的な足場を築き、660年に百済を滅ぼしたときには新羅軍を率い、668年には総司令官である大総管として高句麗討伐に出ました。彼が亡くなると、文武王は礼を尽くして葬儀を行い、功績をたたえる碑を建てたといいます。のちに興徳王は、彼を興武大王(フンムデワン)に追尊しました。
1963年に史跡に指定されました。墓の南西には、1710年(粛宗36年)に慶州府尹の南至薫(ナム・ジフン)が建てた「新羅太大角干金庾信墓」の墓標が残っていますが、文武王が建てたという碑は伝わっていません。
この墓が本当に金庾信のものなのかについては、学界で論争が続いています。周りに十二支神像を刻む様式は、金庾信より約100年後の8世紀の聖徳王陵のころから現れるため、歴史学者の李丙燾(イ・ビョンド)は1968年に、この墓は新羅の神武王の陵だとする主張を出しました。反対に、最初は簡素な墓だったものが、興武大王に追尊された後、当時の王陵の様式に改めて整えられたという反論もあります。現地で十二支神像を見ながら、どちらがもっともらしいか考えてみてください。