釜山東区・凡一洞(ポミルドン)のマンションと市場のあいだに、小さな丘がひとつ森になって残っています。釜山鎮城は朝鮮水軍が守った城で、1592年の壬辰倭乱(文禄の役)の最初の戦闘が行われた場所と深く結びついています。丘に残る城壁は、その戦争のときに日本軍が築いた城を朝鮮水軍が手直しして使ったものなので、一つの丘で両国の築城の方式をあわせて見られます。
朝鮮は1407年に釜山浦を開港し、倭人を監視するため釜山鎮に軍を置きました。1490年には、現在の甑山(チュンサン)の下に周囲約950mの城を築き、これを「前期釜山鎮城」と呼びます。1592年4月に日本軍が上陸すると、僉使の鄭撥(チョン・バル)と兵士、民衆が最後まで戦いましたが、城は陥落しました。
翌年、日本軍は城を壊し、甑山の頂上に本城を、海辺の丘にそれを守る支城(子城台の倭城)を築きました。戦争が終わった後の1607年、朝鮮水軍はこの支城に陣営を移して手直しして使いました。これが、現在残る「後期釜山鎮城」です。当時の周囲は約2.4kmで、東西南北に四つの門がありましたが、日本統治時代の市街地整備でほとんどが取り壊され、周辺の海も埋め立てられました。
長いあいだ、ここは「子城台」と呼ばれていました。日本軍の本城を親城、ここを子の城と見なしたことから付いた名前だったため、住民が改名運動を行い、文化遺産の名称は2020年に釜山鎮城に、公園の名称は2023年1月に釜山鎮城公園に改められました。
朝鮮後期の釜山鎮城には、城壁の上の塀である女牆が483か所あり、東門の鎮東門、西門の金楼館、南門の鎮南門、北門の拘長楼の四つの門楼がありました。城の頂上には、壬辰倭乱のときに来た明の武将・萬世徳をたたえる万公壇があり、北西には客舎である拱辰館、南東には役所の建物がありました。城の周囲には海水を引き込んだ堀があり、船が城壁の近くまで着いたといわれています。