済州島(チェジュド)の海辺に沿って、黒い玄武岩を積み上げた海岸防衛の城壁です。1270年に三別抄(サムビョルチョ)を防ぐために築きはじめ、朝鮮末期まで修築しながら使われ、朝鮮時代の記録ではこの城を「耽羅(タムナ)の万里の長城」と呼びました。今は島のあちこちに断片的に残っていて、もっとも長く続いているのが、西帰浦(ソギポ)市城山邑(ソンサンウプ)の温平里(オンピョンリ)の海辺です。
高麗の元宗11年(1270年)、珍島(チンド)を拠点にモンゴルと高麗の朝廷に抵抗していた三別抄が済州に渡ろうとすると、朝廷は高汝霖(コ・ヨリム)将軍らを派遣し、兵と島の住民を動員して海辺に城を築かせました。ところが同年11月に三別抄が上陸して官軍を破り、今度は三別抄が、官軍とモンゴル軍の反撃に備えて城を築き継ぎました。同じ城壁を、戦っていた二つの勢力が交互に築いたことになります。
三別抄が1273年に滅んだあとも、城は倭寇を防ぐ防衛線として手入れが続けられました。1845年にはイギリスの軍艦が牛島(ウド)沖に1か月以上停泊して測量を行ったため、済州牧使が軍をあげて備え、その年の冬には住民を集めて城を築き直しました。現在残っている城壁の多くは、このとき修築された姿と考えられています。「還海長城」という名前は1918年の記録にはじめて見え、その後広く使われるようになりました。
材料は済州のどこにでもある玄武岩です。畑の石垣を築いてきた島の人々の技がそのまま生かされていて、ぱっと見は海辺の石垣のようですが、高さは3m前後、幅は平均2mほどと、はるかに分厚いつくりです。場所によっては海側の壁をさらに高く積んだ二重の壁が見られ、城壁の上に弓や銃を撃つための穴をあけた女墻(じょしょう)が残る区間もあります。
かつては島の周囲の相当な部分を囲んでいたと伝えられますが、1970年代以降に海岸道路が造られる過程で多くが崩れました。1998年に済州道の記念物に指定された区間は全部で10か所、長さの合計は約5.1kmです。