清凉里(チョンニャンニ)駅と高麗大学のあいだ、都心の真ん中に、朝鮮王室の墓が二か所、森に囲まれて静かに残っています。永徽園は高宗(コジョン)の後宮で、英親王(ヨンチンワン)の母である純献皇貴妃・厳氏の墓で、崇仁園は英親王の最初の息子で、満1歳の誕生日を迎える前に世を去った元孫・李晋(イ・ジン)の墓です。大韓帝国の最後の場面を見届けた二人の物語が、一つの垣根のなかにあります。
厳氏(1854〜1911)は、幼い年で宮女として宮廷に入り、明成皇后に仕えました。1895年の乙未事変で明成皇后が殺害された後は、高宗のそばに仕え、日本の監視を逃れて高宗をロシア公使館に移す俄館播遷の計画を立てて実行したと伝わります。尚宮の身分だった彼女は、数日にわたって二台の輿で宮廷を出入りして監視をゆるめさせたのち、高宗と王世子を輿に乗せて脱出させたといいます。
このことで高宗の後宮となり、1897年に英親王を産み、1903年に皇貴妃に冊封されました。女性教育にも力を注ぎ、進明女学校と明新女学校(現在の淑明女子大学)、養正義塾の設立を助けました。1911年に徳寿宮(トクスグン)の即阼堂(チュクチョダン)で世を去り、当時、明成皇后の旧洪陵(ホンヌン)の境内だったこの場所に墓がつくられました。洪陵はのちに南楊州(ナムヤンジュ)へ移されましたが、永徽園はそのまま残りました。
王と王妃の墓は「陵」、王世子や王の生母の墓は「園」と呼ばれます。永徽園は王の生母の墓の制度に従ってつくられたので、屏風石や欄干石がなく、墳丘の周りに護石だけをめぐらせ、文石人、石馬、長明灯、望柱石、石羊、石虎が一対ずつ立っています。墳丘の下には、丁字閣と碑閣、紅箭門があり、碑閣のなかの標石には「純献貴妃永徽園」と書かれています。
崇仁園の主、李晋(1921〜1922)は、英親王と李方子(イ・バンジャ)のあいだに、日本で生まれました。1922年に両親とともに一時帰国し、日本に戻る前日、徳寿宮の石造殿で突然亡くなりました。純宗(スンジョン)がこれを不憫に思い、葬儀を手厚く行わせ、永徽園の東の丘に墓をつくりました。墳丘と石の造形物が永徽園よりずっと小さく、二つの墓を並べて見ると違いがよく分かります。
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