高麗の詩人・李奎報(イ・ギュボ)は、「詩と酒と琴」を愛し、酒を主人公にした小説を書き、車輪のついた東屋を考案するほど、風変わりな人物でした。モンゴルの侵入で高麗の朝廷が江華島へ移ったときにここで晩年を過ごし、1241年に74歳で亡くなって、鎮江山(チンガンサン)の東麓に葬られました。江華郡吉祥面(キルサンミョン)吉直里(キルジンニ)にある李奎報の墓は、高麗の文人の墓の中でも珍しく、場所がはっきり伝わっているところです。
李奎報(1168〜1241)の号は白雲居士(ペグンコサ)で、白い雲のようにとらわれずに生きるという意味です。武臣政権の時代に生まれ、進士試に合格した後も長く苦しい暮らしを続けましたが、崔氏政権のもとで官職への道が開け、1237年に門下侍郎平章事を最後に退きました。古い詩句を借りて使うのではなく、自分ならではの新しい表現を使うべきだとする「新意論」を主張し、生涯に数千編の詩を作って、今も2,000編あまりが伝わっています。
彼の文章には、高麗史の研究に欠かせない記録がたくさんあります。
墓は、鎮江山とつながる徳井山(トクチョンサン)の南東にある低い丘陵にあります。直径約3.8mの丸い墳丘の後ろに、しっぽのように土が続き、2段の土手(四城)が墓を囲んでいます。
墳丘の下の屏風石は現代にめぐらされたもので、1960年代に子孫が墓所を整備した後、1980年代に遺影閣と斎室、1983年に文学碑、1991年に復元碑が順に建てられました。そのため、最初の墓の姿は大きく変わっています。墓は1972年に京畿道の記念物に指定され、江華郡が仁川広域市に編入された後の1995年に、仁川広域市の記念物になりました。現在は驪州(ヨジュ)李氏文順公派の宗中が管理しています。